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頬杖ついて考える

ちょっとした出来事から掘り下げて考えてみる

「若者のクルマ離れ」をどう語るか

 

久々の更新。

 

特段面白いトピックではないですけど、この記事について少しだけ。

 

headlines.yahoo.co.jp

 

データにもとづいて、いわゆる「さとり世代」の若者たち、あるいは「若者の消費離れ」といわれるような若者の動向が紹介されています。

 

ここで、参照されているデータである「日本自動車工業会『2015年度 乗用車市場動向調査』」の結果を見てみましょう。

http://www.jama.or.jp/lib/invest_analysis/pdf/2015PassengerCars.pdf

 

記事中では、59%の若者(注:学生を除く、20代以下)が車を買うつもりがないという調査結果について取り上げられていました。

 

調査結果のp.101を見てみると、買うつもりがないと回答した人たちが示した理由の中で最も多かったのが「買わなくても生活できる」でした。

 

「買わなくても生活できる」と回答した人を居住地域別で見てみると、首都圏が46%で地方圏が35%となっています。

 

このデータを見る限りでは、公共交通機関の発達の具合によって車の購買意欲が異なると考えることができます。

 

その意味では、「若者は消費を嫌うから云々」といった発想から、「若者のクルマ離れ」を語るのは難しそうです。

 

ある人の社会的背景から生じる結果(例:「都市圏に住んでいるから車は買わない」)を、ある人の性向から生じる結果(例:「節約志向だから車は買わない」)として解釈するのは間違ってるよね、というお話でした。

「少年よ、大志を抱け」るのか?

 

Boys, be ambitious.

 

札幌農学校1期生との別れの際に、北海道札幌郡月寒村島松駅逓所(現在の北広島市島松)でクラークが発したとされるクラークの言葉」(wikiより引用)なんですって。

 

クラークは「お雇い外国人」として1876年に札幌農学校に着任して、翌年去るわけですから、この言葉はおそらく1877年のものなわけです。

 

さて、北の大地でクラークが啓蒙を唱えていた頃、その下のお江戸で啓蒙を唱えていた人物がいました。

 

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずといへり」...福澤諭吉

 

学問のすすめ』の出版が、「1872年(明治5年2月)初編出版。以降、1876年(明治9年11月25日)十七編出版を以って一応の完成をみた。その後1880年(明治13年)に「合本學問之勸序」という前書きを加え、一冊の本に合本された」(wikiより引用)とのことなので、同じ頃に日本の上端と真ん中で啓蒙を唱えていたわけです。

 

(因みに、このフレーズを啓蒙として扱うのは、修学による立身出世を謳っているから。「いへり」の部分が「~と言われている」という意味なので、「まぁ実際は天のもとでも平等じゃないけどね」という現実をあらわしており、だからこそ学問が重要になるという意味だという面白い解釈もありますが(神林博史,2014,「主観のなかの社会階層」『社会意識からみた日本』)。如何せん、学問推しの福澤さんなのであります。)

 

クラークのフレーズと福澤のフレーズが同じ1870年代だったというのは、やや意外な気がしますが、どちらのフレーズも当時の興国意識を背景にもっていると考えれば、スムーズに理解できそうです。

  

さて、以前どこかで

「実はこの言葉には『in christ』が続くから、きわめて宗教色が強い言葉なんだ」

なんてことを小耳に挟んだことがありました。

 

そんなわけで、あの有名なフレーズには「in christ」が続くのだと信じきっていた私ですが、記事を書く手前「Boys, be ambitious 」についてググってそこで驚きました。

 

後に続くフレーズは他にもある(笑)

 

「god」やら 「old man」やら。

何が正確なクラークの引用なのかは分かりませんが、本家本元の北海道大学がこのフレーズについてまとめているようなので、興味のある方はそちらをご覧ください。

www.lib.hokudai.ac.jp

 

閑話休題

 

さて、私が今日ここで書きたかったのはクラークのいう「大志」について。

こんな長い前置きをしてしまっているので、結論だけさっぱりと。

 

少年は大志を抱けないのではないか、と。

 

ところで、クラークがこの啓蒙的なメッセージを発した1870年代における「大志」とはなんだったのでしょうか?

 

この問いに答えるためのヒントは2つあります。

 

1つは、このメッセージの受け手です。

 

まず、「Boys, be ambitious 」の受け手は札幌農学校の学生です。

札幌農学校は「日本で初めて卒業生に学士号(農学士)を授与した教育機関である。学士授与機関としては旧東京大学より約1年早く設立されたため、北海道大学では札幌農学校を日本初の学士の学位を授与する近代的大学として位置づけている」(wikiより引用)。

単純に現在の北海道大学の前身が札幌農学校であることを考えても、そこがエリートの集まる場所だったことは想像に難くないでしょう。Boys, be ambitious は学歴エリートに向けられた言葉だということが1つ目のヒントから得られる答えです。

 

2つ目のヒントは、クラークは「例えば農学校の開校式の演説でも,学生たちに向って『相応の資産と不朽の名声と且又最高の栄誉と 責任を有する地位』に到達することをよびかけている」(先ほど紹介した北海道大学附属図書館のページから引用)ということです。

 

このヒントはほぼ答えのようなものですが、ポイントは「地位」と「到達」というキーワードにあります。クラークは、階層の上昇移動・社会的威信の高い立場の獲得を要請していたのです。

 

この2つのヒントから得られた答えを総合すると、クラークの示す「大志」とは、学歴エリートによる階層の上昇移動と社会的威信の高い立場の獲得を意味していたと考えられます。

 

1886年帝国大学令によって高等教育制度が整備され始め、子が親の学歴を上回る傾向(学歴階層の上昇移動)がその後1960年代まで続くわけですが、この年表にクラークのメッセージ(1887年)を当てはめてみると、クラークのメッセージはなかなか的を得ていたことが分かります。クラークの「大志」の要点である学歴階層の上昇移動は、その後70年ほど続くので、事実、上昇移動は「大志」たりえたわけです。

 

しかし、1970年代に入ると、子が親の学歴を越すことができないという状況が生じてきます。つまり、学歴階層の上昇移動という「大志」を抱くことを可能にしていた社会構造が変化し、「大志」に引導が渡されはじめるわけです。

 

どこまでも学歴階層が上昇移動すればそれでよいかというと、そういうことではありませんが、少なくとも事実についての判断と言う意味では、学歴階層の上昇移動は難しくなってきているのです。

 

つまり、「少年は、学歴階層の上昇移動という大志を抱けない」というわけです。

 

追記

 

はじめ、「高学歴社会の高校生は階層移動の夢を見るか」というタイトルにしようかと考えていました。

 

最近やたらパロったタイトルを聞く、フィリップ・K・ディックアンドロイドは電気羊の夢を見るか?』に私もあやかってみようかと。

 

でも分かりにくいんでやめました。

サンタクロース再生産論

年も暮れ頃の12月27日!
メリークリスマス!

さて、クリスマスと言えば!
赤と白のイメージの!
(日本にいて、どこかの会社のイメージカラーと被るのは偶然ではない)

はい。
日本でもお馴染み、サンタクロースです。

各国イメージカラーが様々だったりとか。
サーフィンしてるサンタがいたりとか。
良い子には袋からプレゼントをあげるサンタ。悪い子を袋に詰めてしまうサンタ。
(秋田の「なまはげ」さながら!)とか。

いやー、一口にサンタといっても、話は尽きませんね。

ところで皆さんは、サンタっていつ頃までいるって信じてましたか?(ちびっ子のみんな、ごめんね。嘘だよ。サンタはいるよ。分かったら、今すぐこのブログを閉じてね。)

25日の朝起きたら、枕元にプレゼントが置いてあって喜んだ記憶があったり。

サンタクロースとトナカイ、両親が三位一体の存在であることに薄々気付いていたり。

公然の秘密が秘密でなくなり、両親から直接クリスマスプレゼントとしてゲームを買ってもらったり。

両親と過ごすクリスマスから、恋人同士で過ごすクリスマスへ移行したり。


サンタにまつわる思い出ってこんな感じですよね。

え?最後の恋人同士のプレゼント交換はサンタ関係ない?いやいや、関係大ありです。
なぜなら、僕らはサンタクロースの再生産に組み込まれているからです。

良い子にして(=教義)、24日の夜は寝てサンタを待てば(=儀礼)、プレゼント(=シンボル)が貰えるので、サンタの存在を信じる第1段階。

(宗教の本質を「教義」と「儀礼」に求めたデュルケムの視点からすれば、われわれは「おやすみクリスマス教」に入信しているわけです。「空飛ぶスパゲッティモンスター教」みたいな。→ https://ja.m.wikipedia.org/wiki/空飛ぶスパゲッティ・モンスター教 )

友人やメディアからの影響で、サンタ実在論からサンタ名目論へ鞍替えするも、両親との気まずさ回避のために、表面的にはサンタクロース実在論者のふりをする第2段階。

(サンタクロース実在論に対し、ヴェーバーが言うところの「呪術からの解放」が為されます。しかし、サンタクロースの不在を指摘するのは、両親の善意の嘘を告発することになってしまいます。そこで、両親との権力関係のもとで、告発への欲求と両親の体面の保持というアンビバレントな感情によって、ゴフマンが言うところの「儀礼的無関心」が選択される、と。)

単にプレゼントのみが親から与えられる第3段階。

(おやすみクリスマス教が啓蒙され、贈与の行為は必要最低限の機能に簡略化される段階です。それは、プレゼントを与える義務、プレゼント受け取る義務、「返礼」としてのリアクションを示す義務によって成り立つ、現代版「贈与論」(モース)によって説明されるのかもしれません。そして、この1つ目の「提供の義務」は、両親がおやすみクリスマス教の教義を受容しているからこそ可能になるわけです。つまり、この「提供の義務」こそが儀礼。)

恋人同士でプレゼントを贈り合う第4段階。

(かつての子どもたちは、互いにサンタクロースとして、提供、受容、返礼の義務を遂行する、と。)

そして、おやすみクリスマス教は自分たちのの子どもを教化させるべく、第1段階へ。

以下、無限ループ。(サンタクロースの再生産)


さて、話が長くなりました。
つまるところ、サンタクロースは「社会化によって学習される役割」なんですね。

こんな夢のない話でも、理論の包み紙で知的プレゼントに。

浮気な恋をあきらめても家には帰らない~「ルージュの伝言」と『リキッド・モダニティ』~

 浮気な旦那のあわてる姿を期待しつつも、不安な気持ちで家をあとにするアンビヴァレントな感情を歌った「ルージュの伝言」。その明るい調子と歌詞のギャップも魅力的だ。40年前にリリースされたこの曲に改めて注目することで、今日的な浮気について考えてみたい。

 

 突然だが、「ルージュの伝言」リリース当時、つまり1975年はどれぐらい浮気が許されていたのだろうか?試しに、厚生労働省「平成21年度『離婚に関する統計』の概況」をみてみよう。(もちろん、離婚の原因は浮気に限らないこと、対婚約者数比を考慮に入れていないという問題はあるが。)

 

 では、実際に数字をみていこう。1975年当時の離婚件数(組数)は、約12万組となっている。ちなみに、この統計では人口を1000としたときの離婚率も発表されており、1975年では約1000人に1人が離婚を経験している(離婚率は1.07)。

 さて、2015年ではどうだろうか?と言いたいところだが、あいにく2015年データはないので、厚生労働省の「平成26年(2014年)人口動態統計の年間推計」を参照することにしよう。この統計からは、2014年の日本では約22万組が離婚していること、約1000人に5人の割合で離婚を経験した人がいることがわかる。

 つまり、この40年間の間に離婚を経験した人は約5倍に増えたと考えることができる。(もちろん、複数の離婚を同一の人が経験している場合を除いて、だが。)

 

 この離婚率の上昇が意味するところはなんだろうか?それは、「ルージュの伝言」の主人公に言わせれば、「浮気な恋をあきらても家には帰らない」ということなのではないか?つまり、こうである。「ルージュの伝言」が歌われた1975年当時は浮気に対して愛情と憎めなさのような感情が入り混じった許容があったが、現代においてはその許容はなくなりつつあるのではないか、ということだ。

 もちろんこう書いてしまうと、浮気は認められるべきだとか、浮気は男の甲斐性だとか言っているように受け取られてしまうかもしれないが、決してそうではない。なぜなら、浮気への許容は女性だけに求められたものではなく、男性にも求められていたと考えることができるからだ。

 「ルージュの伝言」には、浮気な旦那の慌てふためく姿への期待が示されている。例えば、これが1975年ではなくて2015年の現在だったらどうだろうか?もちろん慌てふためくということもあるだろうが、むしろ現在では「バレちまったか。なら仕方ないな。」と諦めて離婚へ向かうこともあるのではないか?これはドライな態度、開き直った態度として一見すると冷たいようにも感じられるが、多数のアドホックな関係を保持し、それらにその都度見切りをつけていくというのは、様々な関係が刻一刻と姿を変える液状化した社会においては合理的な態度だと考えられる。こうした現代的な態度との対比から、1975年においては、慌てふためき妻の出かけた先を知人に聞きまわるような、関係再構築への意思が男性に求められていたのではないかと思うのだ。

 

 つまるところ、離婚率上昇の背景にあったのは、関係再構築への互いの意思の弱まりだったのではないか?というのが「ルージュの伝言」にヒントを得た私の考えである。

 

参考:

厚生労働省:平成21年度「離婚に関する統計」の概況

http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/suikei14/dl/honbun.pdf

 

追記

 今回は、1975年との対比と言う意味で、あえて「男」と「女」という狭い枠のなかで話をしてみたが、「ルージュの伝言」は、主人公のジェンダーとパートナーのジェンダーについて言及していない。(にもかかわらず、そこにジェンダーを当てはめて聴くこと自体、興味深いのであるが。)