頬杖ついて考える

ちょっとした出来事から掘り下げて考えてみる

電車

映画「君の名は。」の快進撃が続きますねー。
公開期間の長さに象徴的です。


さて、出だしで「君の名は。」を取り上げてはみましたが、今日の話と直接的な関係はあまりありません。(とはいいつつ、あとでちょこっとだけ言及しますが)

今日の話は電車。
特に、その位置付けについて。

皆さんにとって、電車って何でしょうか。
通勤・通学のツールという方から、趣味あるいは生きがいだという方まで千差万別でしょう。

しかし、私が最近思うのは、電車とは別れのシンボルなのではないかなぁということです。「なごり雪」なんかは、まさにその例でしょう。(この場合、「汽車」ですが笑)


明治以降続く、地方の悲願としての電車は、地方から都市部への人材パイプでした。高度経済成長を遂げようとする都市部へ「金の卵」を供給したのは紛れもなく電車でしょう。電車が別れのシンボルだというのは、地方あるいはその土地に残る人との別れという意味合いも歴史的に含んでいるのかもしれません。

電車が別れのシンボルたる理由は、以上のものに加えて、電車が本人の意図とは別に動き出してしまうことにもあるでしょう。

例えば、先ほどの「なごり雪」が汽車ではなく車によるストーリーだったとしたらどうでしょう。「なごり雪」が「なごり雪」の情景を可能にするのは、男女の意図に反して汽車が出発することで生じる別れだともいえます。しかし、彼らの意図に反して動き出す人工物としての汽車ではなく、彼らの意思でもって動き始める車であったなら、「なごり雪」は「なごり雪」でなくなってしまうでしょう。むしろその場合、沢田研二の「サムライ」のように、個人の内部での葛藤(男女でその場に留まるか、片方が去るか)をどう越えていくかということが歌の前面に出てしまうかもしれません。


このような意味での電車のもつ不可抗力性があるからこそ、とある映画で別々に電車に乗った男女が、電車のすれ違いざまに互いの存在に気づき、電車を降りてお互いを探し、出会うまでの感動があるのかもしれません。なぜなら、それは不可抗力性を克服した物語としても認識できるからです。

電車に限らず、不可抗力な別れを告げさせる人工物は溢れています。例えば、船とかバスとか。しかし、これほどにも歌詞や映画に別れをもたらす存在として電車(あるいは汽車)が持ち出されることを考えると、(開発の)歴史的な流れでもって理解するのもそれなりに正当な気はします。

意外とこのあたり、国際比較とかしてみると、経済的な発展や地理条件なんかによる違いが見えてきたりして面白いかもしれないですね。

それじゃ、久々の更新はこの辺で。

MacとMendeley

久しぶりの更新は、Macについて。

 

WindowsMacではどちらが優れているのか。

日本でユーザーの多いWindowsから、Macへの移行を考えた際に誰しも考えることかと思います。

見た目でMac買っちゃうのもアリなんでしょうが、いかんせん操作が違いすぎて移行は難しそう。

ただ、Macへの移行は論文を読む場合はアリなのかなぁと考え中。

それは、MendeleyがMacでより機能するから。

 

www.mendeley.com

 

WindowsでMendeleyを使って論文を読まれている方にとっては、英和辞書のページとでのウィンドウの切り替えが煩わしいかもしれません。

ただ、Macの場合は単語を選択、右クリックすると "define"が表示されて、ウィンドウを切り替えることなく意味確認ができるようです。

Mac内臓の辞書とリンクしているそうで、因みにiPadでも同じことができます。

(既にご存知の方には当たり前のことだったかもしれませんが)

 

Mendeleyの見た目を利便性を口実に、Macへの移行を検討する今日この頃でしたとさ。

 

 

会話とターゲット

久々の更新は「会話」について、つらつらと。

 

日本語が母語でない人たちとの会話は必ずしも少なくない。

一生で皆無という人こそ少ないのではないだろうか。

オフィスがそのような人たちとの共生空間であればなおのこと。

 

日本にいるうちは、ノンネイティブの人たちも日本語を使おうという努力を見せてくれる。

ただし、日本語のネイテイブ・スピーカー同士が海外に行ったときを想定してもらえればわかるように(語学研修とか考えてもらえればいいのだけれど)、おそらく日本語ネイティブ同士の空間においては日本語を話す(当たり前かもしれないけれど)。

このことは、使用する言語が場所ではなくて、空間によって規定されることをあらわす。

 

裏を返せば、使用する言語が「空間によって規定される」とは、ある言語を使用しようとする当事者がどのように空間を意味づけるかによって、使用する言語が決定されるということでもある。これはつまり、使用する言語の決定には、ある空間において誰を排除し、また誰を包摂するかという意図が反映されているということでもある。

例えば、日本の職場の同僚の言語Aのネイティブたちと食事にいったとする。会食の中で交わされる言語については、彼ら・彼女らの多くは日本語を使ってくれるだろう(日本ではこれらの場合に使用する言語が日本語になる事自体、とても興味深いのだけれど)。

会話の最中、自分の関心が会話以外に移ることはある。例えば、メニューとか。

ただ、その関心が浮遊しているときも、会話は日本語で進んでいる。

少なくとも、自分の関心は発話行為の主体から離れていっているにも関わらず、話し手の関心は、日本語を用いているという点で、自分(私)に向けられている。

これは、話し手が私を空間に包摂していたいという意図があらわれている例である。

 

一方で、排除の例もある。例えば、バスや電車の中で自分の知らない言語で行われる会話などはそうなのかもしれない。(もともと包摂の必要があるとは思えないけれど)

それに、会食の例で自分が意味を知りえない言語Aで進められる会話は、その「場所」にいながらも「空間」からは排除されていることを示す例になるだろう。

 

結局、実践レベルで何が言いたいかというと、ある会話の中で使用する言語は気づかないうちに排除の意図を示すこともあるし、ある会話の中で使用されている言語は包摂の意図を示すものでもあるということ。前者についても後者についても「敏感」であることが重要で、後者については「ないがしろにしない」ってのが重要なんだろうなぁ、ということです。

焼き鳥の串を外すということ


久しぶりの更新は、パッと見面白くなさそうな焼き鳥の串外しについて。

焼き鳥の串を外すか外さないかって、意見分かれるところなんですね。割とどうでもいいことのような気はしますけど、わざわざNAVERまとめで取り上げててりとか。(http://matome.naver.jp/m/odai/2143633059934287101)まぁ、別にネットで取り沙汰されてるから何だって話ではあるんですけど。笑

焼き鳥保守主義者の方々は、串があってこその焼き鳥だとか、焼き鳥とは串も含めて1つの料理なのだとか、そもそも串から外すなら焼き鳥である必要はないとか、味が落ちる(肉汁が出てしまう)とかいう理由で串外しには否定的態度を取ってらっしゃるようです。

一方、焼き鳥革新主義者の方々は、焼き鳥の盛り合わせに対応しやすい、食べやすい等の理由で串外しには肯定的な態度を取ってらっしゃるようです。

このような状況にある「焼き鳥の保革対立」ですが、今回はどちらの視点にも寄ることなく、この対立に少しだけ歩み寄ってみたいと思います。

でも、分析的には焼き鳥保守派の視点から、なぜ「串外し」という現象が生じつつあるのかを考えることになると思います。焼き鳥界の「変動」を説明してみるってことですね。(串外しが新しい現象が否かについては保留。とりあえず、新しい現象として見なしてみて、話を進めます。)

さて、焼き鳥革新派の主張のポイントの1つはは、盛り合わせの食べやすさにありました。焼き鳥革新派の言う通り、焼き鳥屋に来たメンバーそれぞれが、複数の味を少しずつ楽しめるのであれば、それはそれで理想的でしょう。例えば、4人の飲み会で、もも・砂肝・ぼんじり・せせりの盛り合わせがテーブルにきて、それを串から外して4人で食べた方が皆それぞれの味を楽しめていいのかもしれません。つまり、4人それぞれが同じものを同じだけ食べているということになります。これを便宜的に「形式的平等」と呼んでおきましょう。

この「形式的平等」に対立することになるのは、「本質的平等」でしょう。(焼き鳥だけに、)ひとくちに「本質的平等」と言っても、それが意味するところは難しいですが、例えばこんな場合が含まれるのかもしれません。

4人で焼き鳥屋に来て、先ほどと同様の盛り合わせがテーブルに到着。Aさんは、せせりの食感が苦手だけど砂肝は堪らなく好きなので、砂肝を1本食べたいと主張。他の人たちもそれぞれ好きなものを、被った場合は話し合いをして、自分の好きな串を食べます。「必要」にもとづいた平等という考え方です。

(あまり平等とは関係のない話をしてみると、このような例の場合では、それぞれが串を食べた後に感想を交換するという展開も考えられます。串で食べることの潜在的な機能?には、身内でレビューしあうということも含まれるのかもしれません)

この例はあくまで一つの理想型(モデル)にすぎません。ただ、焼き鳥界における串をめぐる保守から革新への変動は、この1つのモデルの可能性さえも排除してしまっているのかもしれません。

「本質的平等」を達成するためには「議論」が必要になります。「議論」は知的な雰囲気のあるところや、対話の余裕のあるところに生まれますが、もしかすると焼き鳥革新主義の登場は、同席者との対話についての志向性の変化をあらわしているのかもしれません。つまり、たかだか焼き鳥の食べ方なんかで、対立のリスクを孕んだようなことはせず、「形式的平等」のもと、機械的に(=価値付与的なことはせずに)、穏便にやり過ごしましょうよという意識のあらわれなのかもしれないということです。

(もちろん、場の権力関係、世代など考慮すべき要因は様々あります。疑問とか興味がある人がいたら、その人がそこらへんの整理をしちゃったらいいんだと思います。「分業」が重要ですから笑)

そういえば、このブログの最初の記事で「余裕」について言及しました。今回の記事の念頭に置いてあるのも、前回とカタチは違えど「余裕」です。

今後も「余裕」に関係することを取り上げてみたりみなかったり。

ではでは、良い週末と美味しい焼き鳥を。

スポークス

 

ちょっとしたことです。これまたYahooニュースの記事から。

 

news.yahoo.co.jp

 

北海道5区での選挙を意識した、官房長官による野党批判という記事ですね。

でも、今回注目したいのはそういう「内容」ではなく「形式」です。

 

この記事では「批判のスポークスマン」という表現が使われています。

 

最近では「スポークスマン」という表現をせずに、「スポークスパーソン」という場合もあるようですね。

スポークスパーソン - Wikipedia

 

こういう変化は、テキストレベルでジェンダーに配慮するという「行為」それ自体を目的化することなく、なんのための配慮なのかという「目的」に自覚的な態度で続いてほしいなぁと思います。

 

(もちろん、どこかの広報担当者が「とりあえず世間の風当たりが強いからジェンダーフリーな文体にしてみる」ことが、偶然その広報を見かけた喋り始めの子どものジェンダーフリーな意識に影響することもあるわけですが...)

 

 

 

「若者のクルマ離れ」をどう語るか

 

久々の更新。

 

特段面白いトピックではないですけど、この記事について少しだけ。

 

headlines.yahoo.co.jp

 

データにもとづいて、いわゆる「さとり世代」の若者たち、あるいは「若者の消費離れ」といわれるような若者の動向が紹介されています。

 

ここで、参照されているデータである「日本自動車工業会『2015年度 乗用車市場動向調査』」の結果を見てみましょう。

http://www.jama.or.jp/lib/invest_analysis/pdf/2015PassengerCars.pdf

 

記事中では、59%の若者(注:学生を除く、20代以下)が車を買うつもりがないという調査結果について取り上げられていました。

 

調査結果のp.101を見てみると、買うつもりがないと回答した人たちが示した理由の中で最も多かったのが「買わなくても生活できる」でした。

 

「買わなくても生活できる」と回答した人を居住地域別で見てみると、首都圏が46%で地方圏が35%となっています。

 

このデータを見る限りでは、公共交通機関の発達の具合によって車の購買意欲が異なると考えることができます。

 

その意味では、「若者は消費を嫌うから云々」といった発想から、「若者のクルマ離れ」を語るのは難しそうです。

 

ある人の社会的背景から生じる結果(例:「都市圏に住んでいるから車は買わない」)を、ある人の性向から生じる結果(例:「節約志向だから車は買わない」)として解釈するのは間違ってるよね、というお話でした。

「少年よ、大志を抱け」るのか?

 

Boys, be ambitious.

 

札幌農学校1期生との別れの際に、北海道札幌郡月寒村島松駅逓所(現在の北広島市島松)でクラークが発したとされるクラークの言葉」(wikiより引用)なんですって。

 

クラークは「お雇い外国人」として1876年に札幌農学校に着任して、翌年去るわけですから、この言葉はおそらく1877年のものなわけです。

 

さて、北の大地でクラークが啓蒙を唱えていた頃、その下のお江戸で啓蒙を唱えていた人物がいました。

 

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずといへり」...福澤諭吉

 

学問のすすめ』の出版が、「1872年(明治5年2月)初編出版。以降、1876年(明治9年11月25日)十七編出版を以って一応の完成をみた。その後1880年(明治13年)に「合本學問之勸序」という前書きを加え、一冊の本に合本された」(wikiより引用)とのことなので、同じ頃に日本の上端と真ん中で啓蒙を唱えていたわけです。

 

(因みに、このフレーズを啓蒙として扱うのは、修学による立身出世を謳っているから。「いへり」の部分が「~と言われている」という意味なので、「まぁ実際は天のもとでも平等じゃないけどね」という現実をあらわしており、だからこそ学問が重要になるという意味だという面白い解釈もありますが(神林博史,2014,「主観のなかの社会階層」『社会意識からみた日本』)。如何せん、学問推しの福澤さんなのであります。)

 

クラークのフレーズと福澤のフレーズが同じ1870年代だったというのは、やや意外な気がしますが、どちらのフレーズも当時の興国意識を背景にもっていると考えれば、スムーズに理解できそうです。

  

さて、以前どこかで

「実はこの言葉には『in christ』が続くから、きわめて宗教色が強い言葉なんだ」

なんてことを小耳に挟んだことがありました。

 

そんなわけで、あの有名なフレーズには「in christ」が続くのだと信じきっていた私ですが、記事を書く手前「Boys, be ambitious 」についてググってそこで驚きました。

 

後に続くフレーズは他にもある(笑)

 

「god」やら 「old man」やら。

何が正確なクラークの引用なのかは分かりませんが、本家本元の北海道大学がこのフレーズについてまとめているようなので、興味のある方はそちらをご覧ください。

www.lib.hokudai.ac.jp

 

閑話休題

 

さて、私が今日ここで書きたかったのはクラークのいう「大志」について。

こんな長い前置きをしてしまっているので、結論だけさっぱりと。

 

少年は大志を抱けないのではないか、と。

 

ところで、クラークがこの啓蒙的なメッセージを発した1870年代における「大志」とはなんだったのでしょうか?

 

この問いに答えるためのヒントは2つあります。

 

1つは、このメッセージの受け手です。

 

まず、「Boys, be ambitious 」の受け手は札幌農学校の学生です。

札幌農学校は「日本で初めて卒業生に学士号(農学士)を授与した教育機関である。学士授与機関としては旧東京大学より約1年早く設立されたため、北海道大学では札幌農学校を日本初の学士の学位を授与する近代的大学として位置づけている」(wikiより引用)。

単純に現在の北海道大学の前身が札幌農学校であることを考えても、そこがエリートの集まる場所だったことは想像に難くないでしょう。Boys, be ambitious は学歴エリートに向けられた言葉だということが1つ目のヒントから得られる答えです。

 

2つ目のヒントは、クラークは「例えば農学校の開校式の演説でも,学生たちに向って『相応の資産と不朽の名声と且又最高の栄誉と 責任を有する地位』に到達することをよびかけている」(先ほど紹介した北海道大学附属図書館のページから引用)ということです。

 

このヒントはほぼ答えのようなものですが、ポイントは「地位」と「到達」というキーワードにあります。クラークは、階層の上昇移動・社会的威信の高い立場の獲得を要請していたのです。

 

この2つのヒントから得られた答えを総合すると、クラークの示す「大志」とは、学歴エリートによる階層の上昇移動と社会的威信の高い立場の獲得を意味していたと考えられます。

 

1886年帝国大学令によって高等教育制度が整備され始め、子が親の学歴を上回る傾向(学歴階層の上昇移動)がその後1960年代まで続くわけですが、この年表にクラークのメッセージ(1887年)を当てはめてみると、クラークのメッセージはなかなか的を得ていたことが分かります。クラークの「大志」の要点である学歴階層の上昇移動は、その後70年ほど続くので、事実、上昇移動は「大志」たりえたわけです。

 

しかし、1970年代に入ると、子が親の学歴を越すことができないという状況が生じてきます。つまり、学歴階層の上昇移動という「大志」を抱くことを可能にしていた社会構造が変化し、「大志」に引導が渡されはじめるわけです。

 

どこまでも学歴階層が上昇移動すればそれでよいかというと、そういうことではありませんが、少なくとも事実についての判断と言う意味では、学歴階層の上昇移動は難しくなってきているのです。

 

つまり、「少年は、学歴階層の上昇移動という大志を抱けない」というわけです。

 

追記

 

はじめ、「高学歴社会の高校生は階層移動の夢を見るか」というタイトルにしようかと考えていました。

 

最近やたらパロったタイトルを聞く、フィリップ・K・ディックアンドロイドは電気羊の夢を見るか?』に私もあやかってみようかと。

 

でも分かりにくいんでやめました。