競争と餃子
今日の話はタイトルそのまんま、餃子と競争についてです。
さて、最近(でもないんですが)見つけたアプリで面白いなあというのがコレ。
「宇都宮餃子ナビ」
特に店は決めてないんだけど餃子食べに宇都宮きましたって方におススメです。
というアプリの宣伝が目的ではないです。
(ちなみに私のおススメのお店は、この"Hananoki@Plus"さん
https://tabelog.com/tochigi/A0901/A090101/9000978/)
どういう経緯で開発されたのかは分かりませんが、外部からの餃子の需要を高めることで、宇都宮内部での餃子店間の競争で劣位に立った際のコストを引き下げる効果とかがあったら面白いですね。
(つまり、外部から多く集客できるようになることで、宇都宮の内部での店舗間競争に敗れたとしても、客足自体が伸びることで利益が底上げされているので、敗れたコストは致命的にはならないのかもしれないということです。)
こう考えると、宇都宮餃子ナビからは1つのモデルが導き出されるのかもしれません。
別に宇都宮に限らず、共通の「名物」をもっている土地は様々あります。
りんごの街のアップルパイ|公益社団法人 弘前観光コンベンション協会
店舗間の関係は競合他社の関係にあったとしても、宇都宮のようなIoTの事例で協働することで、エリア全体としての客足を伸ばせたら、競争の結果は企業の存続にダイレクトに響くことはないんじゃないでしょうか。
組織の存続という目的のための手段である競争をさせてしまうのではなく、クオリティの向上という目的のための手段として競争を位置づけ、組織の属する業界自体を潤すことで存続の要件を満たしてしまうというモデルは、その業界(あるいはこれまでの話なら観光地)にとっても、アリなのかもしれませんね。
電車
MacとMendeley
久しぶりの更新は、Macについて。
日本でユーザーの多いWindowsから、Macへの移行を考えた際に誰しも考えることかと思います。
見た目でMac買っちゃうのもアリなんでしょうが、いかんせん操作が違いすぎて移行は難しそう。
ただ、Macへの移行は論文を読む場合はアリなのかなぁと考え中。
それは、MendeleyがMacでより機能するから。
WindowsでMendeleyを使って論文を読まれている方にとっては、英和辞書のページとでのウィンドウの切り替えが煩わしいかもしれません。
ただ、Macの場合は単語を選択、右クリックすると "define"が表示されて、ウィンドウを切り替えることなく意味確認ができるようです。
Mac内臓の辞書とリンクしているそうで、因みにiPadでも同じことができます。
(既にご存知の方には当たり前のことだったかもしれませんが)
Mendeleyの見た目を利便性を口実に、Macへの移行を検討する今日この頃でしたとさ。
会話とターゲット
久々の更新は「会話」について、つらつらと。
日本語が母語でない人たちとの会話は必ずしも少なくない。
一生で皆無という人こそ少ないのではないだろうか。
オフィスがそのような人たちとの共生空間であればなおのこと。
日本にいるうちは、ノンネイティブの人たちも日本語を使おうという努力を見せてくれる。
ただし、日本語のネイテイブ・スピーカー同士が海外に行ったときを想定してもらえればわかるように(語学研修とか考えてもらえればいいのだけれど)、おそらく日本語ネイティブ同士の空間においては日本語を話す(当たり前かもしれないけれど)。
このことは、使用する言語が場所ではなくて、空間によって規定されることをあらわす。
裏を返せば、使用する言語が「空間によって規定される」とは、ある言語を使用しようとする当事者がどのように空間を意味づけるかによって、使用する言語が決定されるということでもある。これはつまり、使用する言語の決定には、ある空間において誰を排除し、また誰を包摂するかという意図が反映されているということでもある。
例えば、日本の職場の同僚の言語Aのネイティブたちと食事にいったとする。会食の中で交わされる言語については、彼ら・彼女らの多くは日本語を使ってくれるだろう(日本ではこれらの場合に使用する言語が日本語になる事自体、とても興味深いのだけれど)。
会話の最中、自分の関心が会話以外に移ることはある。例えば、メニューとか。
ただ、その関心が浮遊しているときも、会話は日本語で進んでいる。
少なくとも、自分の関心は発話行為の主体から離れていっているにも関わらず、話し手の関心は、日本語を用いているという点で、自分(私)に向けられている。
これは、話し手が私を空間に包摂していたいという意図があらわれている例である。
一方で、排除の例もある。例えば、バスや電車の中で自分の知らない言語で行われる会話などはそうなのかもしれない。(もともと包摂の必要があるとは思えないけれど)
それに、会食の例で自分が意味を知りえない言語Aで進められる会話は、その「場所」にいながらも「空間」からは排除されていることを示す例になるだろう。
結局、実践レベルで何が言いたいかというと、ある会話の中で使用する言語は気づかないうちに排除の意図を示すこともあるし、ある会話の中で使用されている言語は包摂の意図を示すものでもあるということ。前者についても後者についても「敏感」であることが重要で、後者については「ないがしろにしない」ってのが重要なんだろうなぁ、ということです。
焼き鳥の串を外すということ
スポークス
ちょっとしたことです。これまたYahooニュースの記事から。
北海道5区での選挙を意識した、官房長官による野党批判という記事ですね。
でも、今回注目したいのはそういう「内容」ではなく「形式」です。
この記事では「批判のスポークスマン」という表現が使われています。
最近では「スポークスマン」という表現をせずに、「スポークスパーソン」という場合もあるようですね。
こういう変化は、テキストレベルでジェンダーに配慮するという「行為」それ自体を目的化することなく、なんのための配慮なのかという「目的」に自覚的な態度で続いてほしいなぁと思います。
(もちろん、どこかの広報担当者が「とりあえず世間の風当たりが強いからジェンダーフリーな文体にしてみる」ことが、偶然その広報を見かけた喋り始めの子どものジェンダーフリーな意識に影響することもあるわけですが...)
「若者のクルマ離れ」をどう語るか
久々の更新。
特段面白いトピックではないですけど、この記事について少しだけ。
データにもとづいて、いわゆる「さとり世代」の若者たち、あるいは「若者の消費離れ」といわれるような若者の動向が紹介されています。
ここで、参照されているデータである「日本自動車工業会『2015年度 乗用車市場動向調査』」の結果を見てみましょう。
http://www.jama.or.jp/lib/invest_analysis/pdf/2015PassengerCars.pdf
記事中では、59%の若者(注:学生を除く、20代以下)が車を買うつもりがないという調査結果について取り上げられていました。
調査結果のp.101を見てみると、買うつもりがないと回答した人たちが示した理由の中で最も多かったのが「買わなくても生活できる」でした。
「買わなくても生活できる」と回答した人を居住地域別で見てみると、首都圏が46%で地方圏が35%となっています。
このデータを見る限りでは、公共交通機関の発達の具合によって車の購買意欲が異なると考えることができます。
その意味では、「若者は消費を嫌うから云々」といった発想から、「若者のクルマ離れ」を語るのは難しそうです。
ある人の社会的背景から生じる結果(例:「都市圏に住んでいるから車は買わない」)を、ある人の性向から生じる結果(例:「節約志向だから車は買わない」)として解釈するのは間違ってるよね、というお話でした。