読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

頬杖ついて考える

ちょっとした出来事から掘り下げて考えてみる

浮気な恋をあきらめても家には帰らない~「ルージュの伝言」と『リキッド・モダニティ』~

 浮気な旦那のあわてる姿を期待しつつも、不安な気持ちで家をあとにするアンビヴァレントな感情を歌った「ルージュの伝言」。その明るい調子と歌詞のギャップも魅力的だ。40年前にリリースされたこの曲に改めて注目することで、今日的な浮気について考えてみたい。

 

 突然だが、「ルージュの伝言」リリース当時、つまり1975年はどれぐらい浮気が許されていたのだろうか?試しに、厚生労働省「平成21年度『離婚に関する統計』の概況」をみてみよう。(もちろん、離婚の原因は浮気に限らないこと、対婚約者数比を考慮に入れていないという問題はあるが。)

 

 では、実際に数字をみていこう。1975年当時の離婚件数(組数)は、約12万組となっている。ちなみに、この統計では人口を1000としたときの離婚率も発表されており、1975年では約1000人に1人が離婚を経験している(離婚率は1.07)。

 さて、2015年ではどうだろうか?と言いたいところだが、あいにく2015年データはないので、厚生労働省の「平成26年(2014年)人口動態統計の年間推計」を参照することにしよう。この統計からは、2014年の日本では約22万組が離婚していること、約1000人に5人の割合で離婚を経験した人がいることがわかる。

 つまり、この40年間の間に離婚を経験した人は約5倍に増えたと考えることができる。(もちろん、複数の離婚を同一の人が経験している場合を除いて、だが。)

 

 この離婚率の上昇が意味するところはなんだろうか?それは、「ルージュの伝言」の主人公に言わせれば、「浮気な恋をあきらても家には帰らない」ということなのではないか?つまり、こうである。「ルージュの伝言」が歌われた1975年当時は浮気に対して愛情と憎めなさのような感情が入り混じった許容があったが、現代においてはその許容はなくなりつつあるのではないか、ということだ。

 もちろんこう書いてしまうと、浮気は認められるべきだとか、浮気は男の甲斐性だとか言っているように受け取られてしまうかもしれないが、決してそうではない。なぜなら、浮気への許容は女性だけに求められたものではなく、男性にも求められていたと考えることができるからだ。

 「ルージュの伝言」には、浮気な旦那の慌てふためく姿への期待が示されている。例えば、これが1975年ではなくて2015年の現在だったらどうだろうか?もちろん慌てふためくということもあるだろうが、むしろ現在では「バレちまったか。なら仕方ないな。」と諦めて離婚へ向かうこともあるのではないか?これはドライな態度、開き直った態度として一見すると冷たいようにも感じられるが、多数のアドホックな関係を保持し、それらにその都度見切りをつけていくというのは、様々な関係が刻一刻と姿を変える液状化した社会においては合理的な態度だと考えられる。こうした現代的な態度との対比から、1975年においては、慌てふためき妻の出かけた先を知人に聞きまわるような、関係再構築への意思が男性に求められていたのではないかと思うのだ。

 

 つまるところ、離婚率上昇の背景にあったのは、関係再構築への互いの意思の弱まりだったのではないか?というのが「ルージュの伝言」にヒントを得た私の考えである。

 

参考:

厚生労働省:平成21年度「離婚に関する統計」の概況

http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/suikei14/dl/honbun.pdf

 

追記

 今回は、1975年との対比と言う意味で、あえて「男」と「女」という狭い枠のなかで話をしてみたが、「ルージュの伝言」は、主人公のジェンダーとパートナーのジェンダーについて言及していない。(にもかかわらず、そこにジェンダーを当てはめて聴くこと自体、興味深いのであるが。)