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頬杖ついて考える

ちょっとした出来事から掘り下げて考えてみる

サンタクロース再生産論

年も暮れ頃の12月27日!
メリークリスマス!

さて、クリスマスと言えば!
赤と白のイメージの!
(日本にいて、どこかの会社のイメージカラーと被るのは偶然ではない)

はい。
日本でもお馴染み、サンタクロースです。

各国イメージカラーが様々だったりとか。
サーフィンしてるサンタがいたりとか。
良い子には袋からプレゼントをあげるサンタ。悪い子を袋に詰めてしまうサンタ。
(秋田の「なまはげ」さながら!)とか。

いやー、一口にサンタといっても、話は尽きませんね。

ところで皆さんは、サンタっていつ頃までいるって信じてましたか?(ちびっ子のみんな、ごめんね。嘘だよ。サンタはいるよ。分かったら、今すぐこのブログを閉じてね。)

25日の朝起きたら、枕元にプレゼントが置いてあって喜んだ記憶があったり。

サンタクロースとトナカイ、両親が三位一体の存在であることに薄々気付いていたり。

公然の秘密が秘密でなくなり、両親から直接クリスマスプレゼントとしてゲームを買ってもらったり。

両親と過ごすクリスマスから、恋人同士で過ごすクリスマスへ移行したり。


サンタにまつわる思い出ってこんな感じですよね。

え?最後の恋人同士のプレゼント交換はサンタ関係ない?いやいや、関係大ありです。
なぜなら、僕らはサンタクロースの再生産に組み込まれているからです。

良い子にして(=教義)、24日の夜は寝てサンタを待てば(=儀礼)、プレゼント(=シンボル)が貰えるので、サンタの存在を信じる第1段階。

(宗教の本質を「教義」と「儀礼」に求めたデュルケムの視点からすれば、われわれは「おやすみクリスマス教」に入信しているわけです。「空飛ぶスパゲッティモンスター教」みたいな。→ https://ja.m.wikipedia.org/wiki/空飛ぶスパゲッティ・モンスター教 )

友人やメディアからの影響で、サンタ実在論からサンタ名目論へ鞍替えするも、両親との気まずさ回避のために、表面的にはサンタクロース実在論者のふりをする第2段階。

(サンタクロース実在論に対し、ヴェーバーが言うところの「呪術からの解放」が為されます。しかし、サンタクロースの不在を指摘するのは、両親の善意の嘘を告発することになってしまいます。そこで、両親との権力関係のもとで、告発への欲求と両親の体面の保持というアンビバレントな感情によって、ゴフマンが言うところの「儀礼的無関心」が選択される、と。)

単にプレゼントのみが親から与えられる第3段階。

(おやすみクリスマス教が啓蒙され、贈与の行為は必要最低限の機能に簡略化される段階です。それは、プレゼントを与える義務、プレゼント受け取る義務、「返礼」としてのリアクションを示す義務によって成り立つ、現代版「贈与論」(モース)によって説明されるのかもしれません。そして、この1つ目の「提供の義務」は、両親がおやすみクリスマス教の教義を受容しているからこそ可能になるわけです。つまり、この「提供の義務」こそが儀礼。)

恋人同士でプレゼントを贈り合う第4段階。

(かつての子どもたちは、互いにサンタクロースとして、提供、受容、返礼の義務を遂行する、と。)

そして、おやすみクリスマス教は自分たちのの子どもを教化させるべく、第1段階へ。

以下、無限ループ。(サンタクロースの再生産)


さて、話が長くなりました。
つまるところ、サンタクロースは「社会化によって学習される役割」なんですね。

こんな夢のない話でも、理論の包み紙で知的プレゼントに。