頬杖ついて考える

ちょっとした出来事から掘り下げて考えてみる

焼き鳥の串を外すということ


久しぶりの更新は、パッと見面白くなさそうな焼き鳥の串外しについて。

焼き鳥の串を外すか外さないかって、意見分かれるところなんですね。割とどうでもいいことのような気はしますけど、わざわざNAVERまとめで取り上げててりとか。(http://matome.naver.jp/m/odai/2143633059934287101)まぁ、別にネットで取り沙汰されてるから何だって話ではあるんですけど。笑

焼き鳥保守主義者の方々は、串があってこその焼き鳥だとか、焼き鳥とは串も含めて1つの料理なのだとか、そもそも串から外すなら焼き鳥である必要はないとか、味が落ちる(肉汁が出てしまう)とかいう理由で串外しには否定的態度を取ってらっしゃるようです。

一方、焼き鳥革新主義者の方々は、焼き鳥の盛り合わせに対応しやすい、食べやすい等の理由で串外しには肯定的な態度を取ってらっしゃるようです。

このような状況にある「焼き鳥の保革対立」ですが、今回はどちらの視点にも寄ることなく、この対立に少しだけ歩み寄ってみたいと思います。

でも、分析的には焼き鳥保守派の視点から、なぜ「串外し」という現象が生じつつあるのかを考えることになると思います。焼き鳥界の「変動」を説明してみるってことですね。(串外しが新しい現象が否かについては保留。とりあえず、新しい現象として見なしてみて、話を進めます。)

さて、焼き鳥革新派の主張のポイントの1つはは、盛り合わせの食べやすさにありました。焼き鳥革新派の言う通り、焼き鳥屋に来たメンバーそれぞれが、複数の味を少しずつ楽しめるのであれば、それはそれで理想的でしょう。例えば、4人の飲み会で、もも・砂肝・ぼんじり・せせりの盛り合わせがテーブルにきて、それを串から外して4人で食べた方が皆それぞれの味を楽しめていいのかもしれません。つまり、4人それぞれが同じものを同じだけ食べているということになります。これを便宜的に「形式的平等」と呼んでおきましょう。

この「形式的平等」に対立することになるのは、「本質的平等」でしょう。(焼き鳥だけに、)ひとくちに「本質的平等」と言っても、それが意味するところは難しいですが、例えばこんな場合が含まれるのかもしれません。

4人で焼き鳥屋に来て、先ほどと同様の盛り合わせがテーブルに到着。Aさんは、せせりの食感が苦手だけど砂肝は堪らなく好きなので、砂肝を1本食べたいと主張。他の人たちもそれぞれ好きなものを、被った場合は話し合いをして、自分の好きな串を食べます。「必要」にもとづいた平等という考え方です。

(あまり平等とは関係のない話をしてみると、このような例の場合では、それぞれが串を食べた後に感想を交換するという展開も考えられます。串で食べることの潜在的な機能?には、身内でレビューしあうということも含まれるのかもしれません)

この例はあくまで一つの理想型(モデル)にすぎません。ただ、焼き鳥界における串をめぐる保守から革新への変動は、この1つのモデルの可能性さえも排除してしまっているのかもしれません。

「本質的平等」を達成するためには「議論」が必要になります。「議論」は知的な雰囲気のあるところや、対話の余裕のあるところに生まれますが、もしかすると焼き鳥革新主義の登場は、同席者との対話についての志向性の変化をあらわしているのかもしれません。つまり、たかだか焼き鳥の食べ方なんかで、対立のリスクを孕んだようなことはせず、「形式的平等」のもと、機械的に(=価値付与的なことはせずに)、穏便にやり過ごしましょうよという意識のあらわれなのかもしれないということです。

(もちろん、場の権力関係、世代など考慮すべき要因は様々あります。疑問とか興味がある人がいたら、その人がそこらへんの整理をしちゃったらいいんだと思います。「分業」が重要ですから笑)

そういえば、このブログの最初の記事で「余裕」について言及しました。今回の記事の念頭に置いてあるのも、前回とカタチは違えど「余裕」です。

今後も「余裕」に関係することを取り上げてみたりみなかったり。

ではでは、良い週末と美味しい焼き鳥を。