頬杖ついて考える

ちょっとした出来事から掘り下げて考えてみる

会話とターゲット

久々の更新は「会話」について、つらつらと。

 

日本語が母語でない人たちとの会話は必ずしも少なくない。

一生で皆無という人こそ少ないのではないだろうか。

オフィスがそのような人たちとの共生空間であればなおのこと。

 

日本にいるうちは、ノンネイティブの人たちも日本語を使おうという努力を見せてくれる。

ただし、日本語のネイテイブ・スピーカー同士が海外に行ったときを想定してもらえればわかるように(語学研修とか考えてもらえればいいのだけれど)、おそらく日本語ネイティブ同士の空間においては日本語を話す(当たり前かもしれないけれど)。

このことは、使用する言語が場所ではなくて、空間によって規定されることをあらわす。

 

裏を返せば、使用する言語が「空間によって規定される」とは、ある言語を使用しようとする当事者がどのように空間を意味づけるかによって、使用する言語が決定されるということでもある。これはつまり、使用する言語の決定には、ある空間において誰を排除し、また誰を包摂するかという意図が反映されているということでもある。

例えば、日本の職場の同僚の言語Aのネイティブたちと食事にいったとする。会食の中で交わされる言語については、彼ら・彼女らの多くは日本語を使ってくれるだろう(日本ではこれらの場合に使用する言語が日本語になる事自体、とても興味深いのだけれど)。

会話の最中、自分の関心が会話以外に移ることはある。例えば、メニューとか。

ただ、その関心が浮遊しているときも、会話は日本語で進んでいる。

少なくとも、自分の関心は発話行為の主体から離れていっているにも関わらず、話し手の関心は、日本語を用いているという点で、自分(私)に向けられている。

これは、話し手が私を空間に包摂していたいという意図があらわれている例である。

 

一方で、排除の例もある。例えば、バスや電車の中で自分の知らない言語で行われる会話などはそうなのかもしれない。(もともと包摂の必要があるとは思えないけれど)

それに、会食の例で自分が意味を知りえない言語Aで進められる会話は、その「場所」にいながらも「空間」からは排除されていることを示す例になるだろう。

 

結局、実践レベルで何が言いたいかというと、ある会話の中で使用する言語は気づかないうちに排除の意図を示すこともあるし、ある会話の中で使用されている言語は包摂の意図を示すものでもあるということ。前者についても後者についても「敏感」であることが重要で、後者については「ないがしろにしない」ってのが重要なんだろうなぁ、ということです。